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小豆島

大阪を離れたい。
実家には良い思い出がない。母が病気で死に、私は精神が不安定な日々が続き、結婚してやっと家を出られたと思ったら今度は父が病気になってしまった。
何年先になるかはわからないけれど、父を看取ったら、実家はもう手放したいと思っている。父は家を継いでほしいと言っていた時期もあるけれど、結婚して別の家に嫁いだ私にとっては無理な話で、何より私はこの家が好きではない。
実家を手放して、小豆島に行きたい。夫の知人が古民家を譲ってくれると言っている。その人も祖父母の家を父から譲り受けたらしく、とにかく早く手放したいと言っているそうだ。
夫も私も小豆島が好きで移住したいと思っているから、こんなに嬉しい話はない。かなり古い家なので住めるかどうかは行ってみないとわからないけれど、譲ってもらえたら、人生のうちのなるべく早い段階で引越したい。
島に住んだら、アルバイトでもいいから仕事をして、瀬戸内の穏やかな風に癒され、自然を楽しみながら(虫は嫌いだけど・・・)、静かに暮らしたい。
静かに。
都会のせいではないけれど、何だかもう、疲れてしまった。
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父の病気が判明してから、私の生活はガラリと変わってしまった。
まず、仕事に行ける日が大幅に減った。父の検査や入院、手術の日はもちろん、受診に付き添うために仕事を休まなければならなかった。
手術(腹腔鏡で腹膜播種の有無を調べただけだから、手術とは言わないのかも知れないが)が終わった翌日は、嘔吐しそうになっても自分で洗面器を口元に持っていくことも出来なかった。夫と私で夜まで付き添った。
翌日、翌々日とある程度体調が回復してきても、父は自分から歯を磨いたり、リハビリがてら廊下を歩いたりすることもしなかった。食事に使ったお箸すら洗うのをサボろうとする。私が毎日通い、夕食まで付き添って、散歩や歯磨き、食器洗いをするよう促すしかなかった。
病棟内は乾燥していて、普段から水分の摂取量が少ない父はみるみるうちに弱っていった。食欲も減り、ひどい便秘になった。外泊しても部屋でずっとゴロゴロして「水飲みや」「少しでもいいからごはん食べや」というこちらの助言も全く聞こうとしない。自分で元気になるための努力をしない。何もしないとどんどんしんどくなるだけなのに。
そういう状況だから、退院までの2週間は全く仕事に行けなかった。パートのおばさん達もあたふたして文句ばかり言い始めたらしく、見かねた上司は新しいスタッフを雇ってくれた。新しい人が来てくれたことにはとても感謝しているけれど、こちらの今までのやり方を全否定するような言い方ばかりされるので、もう私は身を引くことにした。先生も出勤出来る曜日を固定してくれと言っているし。1年間出来ないなりに精一杯やってきたつもりだったけど、これ以上迷惑をかけるわけにもいかないので、新しい「ベテランさん」に任せておけばよい。悔しいけど。
沢山休みをもらえたことは本当に助かった。約1ヶ月で引越しの荷造りをし、夫の仕事用の車で少しずつ運んで行った。
まずは私の荷物を、父の退院に合わせて実家に運び込む。年をまたいで夫の荷物も運んでゆき、最終的に引越し業者にも頼んで運んでもらった。
夫は自営業だから、2人分の荷物はものすごい量だった。何度マンションと実家を往復したかわからない。引越し業者のトラックにも積み切らず、その後4往復して、やっと運び終えた。
実家も実家で不要な荷物が大量にあった。15年前に死んだ母の遺品も相当残っていて、ごみ袋20袋分は出しただろう。粗大ごみも何度も回収に来てもらった。父も要らない服などを沢山しまいこんでいたので、2人で仕分けして処分した。父の分だけでもごみ袋5個分になった。夫の寝室としてひと部屋空けなければならなかったため、何度も父に謝って婚礼家具も処分した。どこの業者にも引き取ってもらえず、仕方なしに粗大ごみに出そうとしたけれど、当日たまたま、私達が家から運び出しているところに通りがかったおばさんが譲ってほしいと言って来て、引き取ってくれた。
父が自分の持ち物にあまり執着しない人なのをいいことに、片付けの際に思い出にひたることもなく、問答無用でどんどん捨てていった。2世帯になるために、おそらく家の中の半分くらいの荷物は捨てただろう。とても疲れた。

仕事を週1日3時間だけに減らし、毎日父と家で過ごす。父と一緒に起きて朝食を食べ、洗濯や掃除をし、父と昼食を食べに出かけ(父は行きつけの喫茶店に日替わり定食を食べに行くのだ)、荷物を整理して過ごし、夕食を食べ、仕事から帰ってくる夫の食事を準備し、父が寝てから晩酌につき合う。
あまりにも時間の流れがゆっくり過ぎて、だんだん疲れてきた。一軒家なので、今まで住んでいたマンションの家賃分は浮くけれど、それでもちゃんと働かないとお金がないことに変わりはない。何でもいいから、融通の利いてくれるアルバイトを探したい。せめて自分のおこづかいくらいは稼がないと、友達とのランチや買い物に行くのも気が引けてしまう。
何より、自分の時間も持たなければ、一日中父といたのでは気詰まりだ。退院して家に戻ってきてから、父は順調に回復していった。抗がん剤の効果が相当あるのだろう。入院前よりも食事量が増え、今では朝昼夕の3食に加えておやつや夜食も食べるくらいだ。抗がん剤の副作用による便秘や手のしびれ、足の痛みなどに悩まされているが、それも薬の投与1週間後には改善される(抗がん剤は3週間に1回)。ずっと付き添っている必要はない。
ただ、お金がないのと、携帯の電源を切らなければならない場所に行くのは躊躇われて、お芝居仲間の公演はほぼ全て断っている。安定していると言ったって、何があるかわからない。というか、今の小劇場に足を運んだって、この非日常的日常を忘れさせてくれるような傑作に出会えるとは思えない。私にとっては今の環境の方がよほど演劇的で、尚且つリアルだ。

父の病気が判明して以降、執筆が滞ってしまった。実家にインターネットを繋ぎ、自分の部屋を片付けて、やっと落ち着いてパソコンを開くことが出来るようになった。環境が出来ても気持ちがついてこなければ仕方ないので、なかなか進んではいないが、時間のあるうちに書いてしまわなければ。
ところで、今年中に子どもがほしいと夫婦で言っていたけれど、どうなんだろう。病気の父がいる家で子育てなんて出来るんだろうか。病人も子どもも抵抗力がないから、どちらかが病気にかかったらうつしてしまうし、まず父が子どもっぽいのに、もう一人子どもを産んで育てられる?夫も子どもっぽいし、3人の子育てなんて無理じゃないのか?(笑)金銭的にも余裕はないし。
でも、このタイミングで産んでおかなければ、状況はもっと厳しくなる・・・。

まさかこんなことになるとは思っていなかった。こんな状況になるとは。
自分の生活ではないように感じられて、先も見えない日が続いたし、精神的にもきつかった。
来月、CT検査で抗がん剤がどれくらい効いているか評価をして、父の今後の治療方針を決める。先が見えない日はまだまだ続いていく。

父親

昨年の秋頃、父が「げっぷが沢山出てしんどい」と言い出した。
近所の内科に行って胃薬をもらっても治らない。
年齢も考えて、私の職場に来て検査を受けるよう勧めたが、どうせ胃酸過多か何かだろうと軽く考えていた。
私だけじゃない、夫も先生も看護師さんでさえも、「大したことないだろう」と笑っていた。

検査室へ通された父が、眠くなる注射を打たれ、鼻から胃カメラを通される。
私も立ち会うことにする。
少し緊張するけど、すぐに終わる。何もないに決まってる。
細いカメラの先端が食道を通り、モニターに父の胃の中が映し出された瞬間、心臓がドクドクと脈打った。
先ほどまでカメラを操作しながら話していた先生と看護師さんも黙り込む。
「・・・お父さん、便に血が混じることがあるとは言ってませんか?」
「今のところ聞いてはいません・・・」
胃の粘膜を何箇所か採取して細胞診に回す。結果が出るのは1週間後。
結果を待たなくたって、素人目にもわかった。父は胃がんだった。
大きな病院に紹介してもらい精密検査を受けたが、胃全体に腫瘍が広がっている上に腹膜播種があり、根治不能だと告知を受けた。

それから入院、腹腔鏡での検査、抗がん剤治療、実家への引越しと、目まぐるしく日々は過ぎていった。
70歳を超えた父。いつかこんな日が来るだろうと予想はしていたものの、まさかこんなにも早く訪れるとは思ってもみなかった。
私は今まで父が嫌いだった。母親じゃなくて父が死ねばよかったのにと思ったこともあった。何か失敗するたびに怒鳴り散らした。怒鳴る以外に口を聞くことはほどんどなかった。
父は父で私に興味を持ってくれることはなかった。学校からの手紙や書類を机の上に置いていても目を通してくれたことはなかった。私が病気で精神科に通っていても、リストカットで使った血まみれのタオルをその辺に置いていても何も言わなかった。私達は家族でも何でもなかった。ただ同じ屋根の下に住んでいて、私は父のお金を食いつぶし、父は私に洗濯や掃除をしてもらえるのを黙って待っているだけだった。
結婚して家を出、ヘルパーの資格を取って、やっと父との距離をつかむことが出来るようになった。父に軽度発達障害の傾向があり、他者からは理解されにくい言動をすることも受け入れられるようになってきた。
結婚式で一緒にバージンロードを歩いてくれた父。私のウエディングドレス姿に目を真っ赤にしていた父。
失った15年間はこれから十分取り戻せると思っていたのに。楽しい時間はこれからいくらでも作れると思っていたのに、まだ死なれては困るのだ。

幸い抗がん剤の副作用も少なく、退院してからは予想以上に元気になっていった。
今では私よりも沢山ごはんを食べる日もあるくらいだ。私の夫のことが気に入っていて、顔を合わせると嬉しそうにしている。私とも冗談を言って笑ったり出来るようになってきた。
昔のことを考えると信じられない変わりようだ。
自己中心的な行動を度々するので、やっぱり怒鳴り散らしてしまうことはあるけれど。

お父さんには少しでも長く元気でいてほしい。おいしいものを沢山食べて、楽しい思い出を沢山作ってほしい。
私は私で、何年先になるかはわからないけれど、「その時」が来ても後悔しないよう、精一杯父の手助けをしたい。
お母さん、まだお父さんを連れて行かないでください。


節目

16歳の頃。
小劇場の世界を知った私は、そこにいる先輩達に追いつきたくて、早く大人になりたくて必死だった。
「まだ高校生?若いね」と言われるのがものすごく嫌だった。

20歳の頃。
死にたくてたまらなかった。
誕生日がきたら、白い光に包まれて死ねるんだと半ば妄想のように信じていた。でも死ねなかった。
将来どんな仕事に就いてどんな風に暮らしているかなんて想像も出来なかった。

25歳の頃。
必死で働いて、必死で芝居をしていた。
しんどくなることも度々あったけれど、昔よりははるかにマシだった。
年を重ねるごとに、今が一番充実していて楽しいと思えるようになっていった。

30歳の誕生日を迎えた。
あー、とうとう三十路かあ。
特段感慨にふけったり、何か思ったりすることはなかった。自分でも少し意外だった。
それどころじゃない。親の病気、仕事の方向性、出産育児のタイミング。岐路に立たされている。
昔の私にはとても考えられなかったような未来が目の前に広がっている。
言えるのは、どれだけ年を重ねても、悩んだり迷ったり、大変なのは変わらないということ。



プロフィール

a_hoyden(ミキ)

Author:a_hoyden(ミキ)
大阪府在住。30歳。
大学に5年通い、フリーター・医療系の契約社員を経験して、ふらっと結婚。
医療事務として真面目に働きつつ適当に家事やってます。
今は休憩中ですが、関西小劇場でお芝居をしています。

*好き*
中村中・Cocco・鬼束ちひろ・くるり・堺雅人・沢村一樹・佐々木蔵之介・オードリーの若林
いくえみ綾・小花美穂・「NANA」・さくらももこ・山田詠美・乙一・「八日目の蝉」・「17歳のカルテ」・南条あや
とろけるチーズ・サーモン・いくら・たらこ・モスバーガー
買い物に行った時にかわいい店員さんがいると嬉しい。

*嫌い*
グリーンピース
できちゃった結婚
自分の好きなものを馬鹿にされること
わかってもないのにわかったような口を聞く人
綺麗事

大学時代は実験心理学を専攻。
幼少期の母子関係が現在の対人関係にどのように影響しているかについて卒論を書きました。

境界性人格障害と診断されたことがあります。
リストカットやODをしていた時期もありました。
今は・・・何なんだろう。よくわかりません(笑)

とりあえず変な奴です。

*monologue-b*

*monologue*
以前使っていた日記です。

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